2005年 07月 31日
ホーム 青山 豊
「なあ一子、この試合でお前より俺のが打ったら、俺と付き合ってくれよ」 多村のあまりに勝手な申し出に少し吹き出す私。 ねえ多村、男女の仲とかそういうのって、なんてゆうかもっと曖昧なものなんじゃない?少なくともそんな簡単に決めたりするもんじゃないと思うのよ。まあ、想像ですけどね。小6だし。 私はそれを口にこそしなかったものの、私の納得のいってない顔(当たり前だ)を見てとったのか、多村は不満そうに続けた。 「いいじゃん別に。好きなやつ、いないんだろ?」 確かにいない。私の好きな人は、一年前にいなくなってしまった。 私の両親は一年前、離婚をした。 小さい私に詳しい事情は教えられなかったが、どうやら父が新しい恋人を作って出て行ったようだ。子供だって馬鹿じゃない、それくらいは感じ取れる。 親を責める気持ちも無い。親だって男と女で、私という存在を抜きにすれば、三十二はまだ充分恋を楽しめる年齢だという事だって分かっているつもりだ(物わかりのいい子供だと褒められてもいいと思う)。 しかしそれとはまた別に、父が母以外の女性と、と考えた時、今までに無いほど胸が高鳴る自分がいた。 その時から私は、父を一人の男性として見るようになった。でも、父はもういない。 父がいなくなってから、母は昼も夜も仕事を始めた。 それでもうちにお金の余裕は無いはずだったが、「時間をもて余した子供は非行に走りやすい」という話をどこからか聞きつけた母は、私を多くの習い事に行かせた。水泳、ピアノ、公文、英会話、ガールスカウト…。私はその中のほとんどをすぐやめてしまったが、一つだけ続いているものがある。 少年野球。 野球をやっている時だけは、煩わしい女の自分を忘れる事が出来た。 実の父親への恋心という、小6に似つかわしいアブノーマルな悩みを、バットを振って吹き飛ばした。ふくらんできた胸は少し邪魔だったが、私には野球の才能があったし、楽しかった。そして何より、「少年」野球というのがいい。 それなのに、多村の奴ときたら。 「約束だからな。約束は守るもんだからな」 昨日の雨でグラウンドに溜まった水をスポンジで取るという作業中にもかかわらず、多村のアプローチは止まなかった。 野球の時の私は男なのに、まったくうるさい男だ。。 「あんたねえ、そんな事新井君より打てるようになってから言いなさいよ」 「新井はファーストだから俺より打つのは当たり前なんだよ」 さっぱりわけが分からない。多村はまるで、この水はけの悪いグラウンドみたいにうっとおしい。 今日は、私の所属するあづまクラブと半田ボーイズの練習試合が行われる。 前日の雨でグラウンドはぬかるんでいたが、今日は朝からいい天気で、クマゼミがうるさいくらいに鳴いていた。 今日の試合は再来週から始まる市民大会への調整のつもりだった。相手の半田ボーイズはどちらかと言えば弱小チームで、毎年のように県大会まで駒を進める我があづまクラブとは実力に雲泥の差があるはずだったのだ。 しかし、「野球は何が起こるか分からない」。 「はずだった」試合は、現在5回を終了した時点で1ー2。あづまクラブは1点差を追いかけていた。 「半田なんかに負けてて、親御さんたちに恥ずかしいと思わねえのか?絶対この回で逆転してこい!」監督が怒鳴る。 「くそ、あの球見たら、そんな簡単じゃないことくらいわかれよ。ハゲ」と誰かが小声でつぶやいた。まったくその通り。半田ボーイズのピッチャーは、それくらい素晴らしかった。 感情を前に出し、ストレートをテンポ良く投げ込んでくるピッチングは、敵ながらにして見ていて小気味が良いほどだった。今までの試合では見た事が無かったから、多分5年生か転校生なのだろう。 とは言え感心してばかりはいられない。試合は残すところあと2イニングで、3番バッターから始まるこの回を逃せば、あづまクラブにチャンスは無い。 よし応援だ、応援をしなきゃ、と顔を上げると、4番の新井君が豪快にスイングアウトの三振を喫したところだった。ツーアウト。 5番センター多村。 多村も私もまだ無安打だった。ここで彼にヒットが出れば、その次のバッターの私に回るわけだが、例の「約束」が多村の勝利に終わる可能性はかなり上がる。約束を守る気は無いとは言ってもそれは嫌だなあ、と複雑な思いで打席の多村を見つめた。 カキン、と短く甲高い音が響き、多村の打った打球はフラフラと左中間に上がった。平凡なフライだったが、お粗末な相手の守備では打球に追いつけず、ツーベースヒット。二塁ベース上で「見たか、これが愛の…」と叫ぶ多村の言葉には耳を塞いで、自分の打席に集中する。 なぜかどこかで聴いたクラシック音楽が、頭の中で鳴り響いていた。ああ、私、緊張してるな。 しかし相手のピッチャーは明らかに苛立っていた。攻めるなら今だ。 クラシックはどんどん大きくなる。あまりの音量に頭が割れそうだった。 バットの金属音で意識が戻り、私は気付いた時には駆け出していた。 何が起こったのかは理解出来なかったが、走りながら周りに目をやると、視界の角でセンターとライトがボールを追いかけているのが見えた。私はどうやら、右中間を割る打球を放ったらしい。どう打ったのかはさっぱり分からないけど、とにかく今は走るしかない。 センターがクッションボールの処理にもたつく間に、既に私は二塁を蹴っていた。これはランニングホームランになりそうだ。口元が緩みそうになるを抑えながら、ボールをまだ中継に渡っていない事を横目で確認し、三塁を蹴った。自然と三塁側にある相手のベンチが目に入ってくる。 私を恨めしそうに見るベンチの中に、いなくなったはずの父がいた。 呆然と立ち尽くす私。足が動かない。 私はようやく返ってきたボールをタッチされ、アウトになる。周りから歓喜の声と絶望のため息が漏れる。その瞬間、拘束具を外したように身軽になった私は、父の元へ駆け寄った。言いたい事がたくさんあった。 しかし、近くで見るその男の顔は、父のそれとは似ても似つかないものだった。意識が遠のく。 クラシックはいつの間にか、消えていた。 試合は結局、6ー2であづまクラブが勝利を納めた。 同点にされ集中力を欠いた半田ボーイズのピッチャーが、最終回に大崩れしたのだ。ゲームセットを待たずにマウンドを降りる事になった時の彼は、動物園で怒り続けるライオンをイメージさせた。不満が体中に満ちていた。 私達の監督はと言えば、どうやら今日の試合が気に入らなかったらしい。不満を隠そうともしない彼を見れば、午後からの練習はきつくなるだろうという事は想像に難くなかった。やれやれ。なんで勝ったのに、こんな暗い気持ちで昼食を取らねばならないのだ。 私がコンビニで買った2個目のパンの袋を開けようとした時、さっき父と間違えた男が声をかけてきた。思わず身構える私。 「すいません。良かったらこれ食べませんか?息子のお弁当だったんだけど、怒って帰っちゃったもんで…」と、男。 「なんで私」と言いかけてやめた。私のコンビニのパンを見て申し出てくれたのだろう。少し恥ずかしかったが、結局は誘惑に負けて、言葉に甘える事にした。 さっきより近くで見た男の顔は、やっぱりどこか少し父に似ている気がした。 男がくれたお弁当はなぜかお寿司だった。 それを見た多村が「変なの」と言うので、体で隠すようにしてイカのお寿司をつまむ。イカはわさびがとても効いていて、思わず顔をしかめる私。 それを遠くで見ていた男は、少し笑っているように見えた。
by taketoshinkai
| 2005-07-31 07:09
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